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分公だって真剣に勉強してもいいんじゃないかと思って、ひぐらしをプレイする手もひと段落つけて数学をしようと思う。
だから今日は更新は適当に。
最近はちょっと根を詰め過ぎた気もするし、あんまりこんな日が続くとネタというか、自分の中で「こんだけは頑張ろう」という頑張りハードルが2mを越してしまいかねないので、
1m85cmの現段階で下げておこうと思う。


みなさん、音楽は好きだろうか。
最近はMDウォークマンなんてとっくの廃品同然。
ipodやデジタルウォークマンを皮切りに、どんどんと多機能、高画質(!?)、高音質なオーディオ機器が簡単に手に入るようになった。
分公もその道では有名なメーカーのオーディオプレイヤーをipodなんかよりずっとお手ごろ値段で買ったのはいいが、自転車乗車中のイヤホン禁止で嘆かざるを得ない状況である(嘘である)。

オーディオプレイヤーを買うと、「音楽をオーディオ機器に入れる」という作業がいるのはみなさんよくご存知だろう。
CDをPCにいれて、オーディオプレイヤーに。
YouTubeで音楽を聴きながらそのままオーディオプレイヤーに。
その時に気になってしまうのが「音質」。

どんなにイケてる音楽を知っていても、聞いたときに電波の入りきらないラジオ局の放送のようなカスカスの音では満足できないだろう。
できれば高音質で。
できれば綺麗に。
(ここで高音質と綺麗な音とでは分けることにする)
そんな思いがあるから、皆さんはSONYのイヤホンを買ってみたり、オーディオプレイヤーも高価なものを選んでいるのかも知れない。

高音質の音源とは、ビットレートが関係してくる。
iTunesでCDをPCに入れると、普段は128kbpsという数値でコピーされる。
しかし、このkbpsというのは戦闘力みたいなもので、大きければ大きいほど、CDの音源に近い、「高音質」で聞くことができるのだ。
320kbpsほどいくと、十分高音質といえるだろう。

でも、どうなんだろう。
ラジオとCDの音質の差はわかっても、CD音源を劣化させてオーディオプレイヤーに入れた音楽とCDの元音源。
違いってどうなのだろう。
分公には分かるのだろうか。


それでこれ。

mp3ornot

ここは、128kbpsと、320kbpsの音源が置いてあって聞き比べができるサイト。
AかB。
そう!AかBの音源を聞き比べて(テンション↑)!
高音質だと思うほうをクリックしてみると、正解が出るようになっている。
あってずっぽうじゃなくて何度も聞き比べをしてクリックをしてもらいたい。

ちなみに分公はハズレ。
もう高音質だとか、理屈だけでわからないような範囲のことはいわないことにするよママ・・・グスン。

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ひぐらしのなく頃にをプレイしていると、嫌でも「鬼隠し」だとかいうワードを聞く。
家のVHSのビデオボックスを覗くと「千と千尋が鬼隠し」なんていうレンタルビデオ店の安売りで買った名作も出てくる。あれ、タイトルが違ったような・・・まいいや。
幼い頃によくやった隠れんぼ。
家のちょっと広い友人の家で「第○次隠れんぼ大戦」とさわいで押入れに隠れたりしたのもいい思い出である。
人の前からいなくなる。
人の前から姿を消す。
無くなる。
消える。
人に気づかれないように隠れる。
物を隠す。
そんな普段の生活をしている上で焦りやちょっとした恐怖、スリルを感じさせてくれる動作に、人は何かの神秘性を感じてるのかもしれない。

人間に限ったことではなく動物に視野を広げると、「隠す」ことによって生を得る動物だっている。
リスなんていうのは冬が終わるまで食料を地面に掘った穴に隠す。
春になった時に掘り起こして食べるためだ。
鳥が光物を集める、という話もよく聞く。

隠すという行動には動物の本能に直結するものがあるのではないだろうか。




こんなことを書くきっかけになったものと言えば、分公のクラスにちょっとした騒動(?)がおきたからだ。
詳しい経過は知らないが、
どうやらエロ本が持ち込まれたようなのだ。
誰かが知らないが持ってきた4冊のエロ本。
体育の授業の前の、あの暑苦しい男子だけの更衣室でそれが明らかになったのだ。

すぐさま食いつくクラスの中心男子メンバー。
遠巻きからそれを見つめる男衆。
さまざまな検証と議論と中身のチェックを経て、話がまとまったようだ。
「みんなで回そうゼ!そうしよう!」
だが人から借りたエロ本を真剣に見つめるような行為をとるのが分公はちょっと嫌だったので、ガハハと笑いながら「自分の力でそんな本の1冊や2冊確保できないでなぁにがスケベじゃ!」とそのエロ本ローテーションから外れた。
興味が無かったわけではないが、
分公家のあまりの隠しスペースの無さと、弟の半端ではない物色力を鑑みると、安心して持ち帰ることができないだろうというのが一番強かった。
秘密にしているつもりではいるが、ひぐらしのパッケージもすでに見つかっているかもしれない・・・アワワ。

ということで、次の日からエロ本が静かに男子の手を渡り渡り、クラスを駆け巡ることになった。
鞄の中敷のそこに挟んで母親の目から逃れようとするヤツ。
体育館シューズ入れに入れただけのようなヤツ。
みんなエロ本というものより、「隠す」行為に夢中になっているようにも見える。


そういえば、小学校の頃。
分公がよく遊びにいっていた公園の公衆便所の近くに、手ごろな大きさの木が立っていた。
その頃分公は木登りに熱中していて、よく木に登ってそのまま公衆便所の屋根へとよじ登っていたのだ。
・・・
するとある日、登ったいつもの公衆便所の屋根に、3冊の本が置かれていた。
エロ本である。
コスプレものだったのをよく覚えている。
分公たちはエロ本よりもこの便所の屋根で、自分たちと同じように登っている人間がいることにちょっと腹を立てた。
そして、エロ本の中身を開いて、ちょうど便所の屋根によじ登るときに目の前にエロ本が来るようにセットしておいた。
フハハ。
ザマァみろよw




今思えば、今時分たちと同じ年ぐらいの高校生、さらには分公にように家に隠し場所がない男子が、便所の屋根という「安息の場所」としてエロ本を置いていたのかもしれない。

分公が安息の場所だと思っていAかBの各種ログやデータの眠るDドライブの奥底も、実は安息の地でもなんでもない所なのかもしれないと思うと、必死にエロ本を隠すクラスの男子と同じように本能が目覚めるのだった。




ファイルの暗号化は大切☆
 

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朝7:30ぐらいに起床。
枕元にあるスピーカー、といっても友人の借り物がだが、そこから流れるマイベスト。
分公のフィーチャーするミュージックはどれも自分にマッチというかぁ?シンクロするっていうかぁ?
とにかくマジパネェ。
大音量でマジパネェ。
電波ソングが流れてマジパネェぐらい焦る。

なぜヒップホップ系を気取ったのかは分からないけれど、というかヒップホップ系って何なのかわからないけれど、とにかく起床する。
おいおいまだ起床かよ。

学校へ。
自転車通学の分公には厳しい条例ができてしまって、イヤホン・ヘッドホンを着用しての乗車は禁止らしい。
も ち ろ ん 脳内プレイヤーで鼻歌でもかましながら学校へ。
教室には気になる女の子・・・はいないのが残念だが、とにかく席に着く。
ざわざわ・・・教室で皆がおしゃべりしている間も、分公はずっと済ました顔をして必死に友達に借りた宿題を写す。





面白くないなこんなこと書いても。
とにかく学校での分公のポジションは微妙なもので、かなり面白くない。
いや、どこにいっても面白くて「ぷぷっ」と笑わせることはできないのだけれども、特に学校は面白くない。
ということで日常編はここで終わり。

日常っていうのだから日々の常なのだ。
いっつも起こることを書いても仕方がない。

珍しいことに、tanigu(10年来ぐらいの友人。)からメールが来た。
用件はヘドがでるような面倒な内容で、数学の授業をはじめようとしていた分公には結構キちゃったのだが、
何故か憎めないのが古くからの友人である。
どうして、小さいころのからの友人とは長く続くのか。

脳科学についての本の中の情報だが、人間は幼いときには、相手と自分の境界が認識できないのだそうだ。
お母さん「ほら、あ~んして」
赤ん坊(んああ~)
パク☆
なんていう微笑ましい光景も、そんな子どもが資格という情報から相手の動作を確認して、認識していない自我へと同調させてしまう「共鳴」からきているというのだ。
自我がしっかりとできあがる(わがままになるのがその表れ)までは、自分以外の相手の行動、感情に影響を受け安いのだそうだ。
だから胎教ってのがあるのかもしれない。

要するに、幼稚園の頃のように幼いころに仲がよかった友達とは、どこか通じるものがあるのかもしれないと言うことだ。





まぁ正直taniguとは共鳴していたとは思えないのだが・・・^^;
 

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5月病に昨日までかかっていて、TOP絵の完成度がとてつもなく低いのだ。
言い訳ですごめんなさい。
そもそも5月病というのは4月に「いきいきするぞっ!」なんて意気込んだり、期待、やる気に満ちた、精神が活発な月の疲労のリバウンドからくる精神病らしい。
そもそも分公は4月にも関わらずやる気を出さなかったので5月病にもならない訳である。

そんな、(分公には関係なかったが)心と向き合う人が多いであろう5月に、ちょっと面白そうな事を見かけたのでそれについて調べてみた。



気になったというのは、二番煎じさまの掲示板に書かれていた一つの書き込みである(無断で記載して申し訳ないです。もしご都合が悪ければご連絡ください)

http://www2.ezbbs.net/cgi/reply?id=nivansenji&dd=04&re=583

内容は、
「進化する科学技術により人の物質的な距離は縮んでいるが、心の距離は一体どうなっているのか。また、物質的な距離と心の距離の関係は?」
という内容。
おらすっげぇ興味が沸いてきたゾ!

さて、今回調べたのが、
「今でこそ物質的距離が~~というが、昔の人は心の距離をどう考えていたのか」
ということ。
心の距離が縮まったとか、結局昔の人がどう思っていたか考えてみないと分からないですよね~ということである。






小学校、幼稚園のときから「道徳」だとか「人権」だとか、「人を大切に」と教えられてこなかっただろうか。
分公は高校生となった今でも、時々学校で「人権月間だ~!」と言われながら人権の勉強をしたり、他者理解について考えているのだが、そのなかでよく見聞きする単語が思いやりである。

思いやり。 今では相手のことを思う、という意味で使われているのだが、これは昔から使われてきた言葉で、
「思ひ」を「遣(や)る」 と使われてきたようだ。
ただ、現代語訳をすると
「思ひ=悩み」「遣る=遠くへとやってしまう」という訳になって「悩みごとを晴らす」という意味になるそうだ。
奈良時代には「いや~な気持ちを無くす」という意味が主流で使われたいたのだ。
どことなく今の思いやりと意味は似ているような。しかし面白いのは奈良時代が終わってしばらくしてから。

平安時代になると「やる」が補助動詞としての働きをして使われることが多くなってくる。

補助動詞「やる」

(上に接続する動詞の連用形に付いて)
①(多く打消しの語を伴って用いる)動作が完了する意を表す。十分、または最後まで…する。
(①・・・興奮がさめやらぬ。の「やる」という感じで使うが今回は関係なし)
②動作が広く、また遠くまで及ぶ意を表す。ずっと…する。

②の「やる」は「見やる=遠くを見る」といったように「遠くへ~~する」という意味を表していて、
今回の「思ひやる」の「やる」に使われている。
なので平安時代の「思ひ遣る」は「遠くの人(特に多いのが恋人)のことを思う」という意味になる。
さらに現代と同じ様な意味でも使われていることが源氏物語を読んでも分かるらしい。

平安時代の人は、「遠くへ自分の気持ちをやってしまう」という意味の言葉に「相手の気持ちを思う」という意味を付け加えたというのだ。

そんな話を聞くと、昔の日本人も
「他人との心の距離は遠いものよのぉ。ほほほ」
なんて思っていたのではないだろうかと思えてくるのだ。


さらに日本だけではない。


considerは「よく考える」という英単語だが、1単語で「思いやる」の訳をするときに多く使われている。
このconsider、丁度二つの部分に分けることができるらしく、
「con」「sider」の二つになる。
「con」は「全く、完全に」という意味の接頭語で(コンプリートなんて使い方がそれである)、
「sider」はラテン語で「星を観察する」という意味で、その二つを合わせて「星をよく観察する」。
古代の人々は星を観察しながら色々なことやものに思いを馳せていたのが頭に思い浮かぶ。
星の観察によって文明を発展させたなんて歴史も、どことなくconsiderと重なるわけである。

そして、「con」には「一緒に」なんていう意味もある。
無理矢理だが、「一緒に星を眺めて思いを馳せる」という情景が、considerという言葉を作ったのかもしれない。

星のように遠いものを見ながら隣にいるキミを思う。

ちょっとロマンティックではないだろうか。

かなり無茶な解釈だが、どこの国の昔の人も
「人の心とは遠く離れたものだ」
と考えていたのではないかと推測する。

よって分公は、
科学技術が発達していないころは、心と心の距離は長かった
という結論に至った。


確かな答えは出なかったが、この問題を考える上で少しでも参考になるようだったら嬉しい限りである。

<続くのだが、問題とはちょっとズレた結論をだしているので、よければどうぞ>
 

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コメントで「Amareccoは使用にお金がかかるのでは?」というコメントを頂いたので、それについて解説を付け加えて記事を修正した。

こちらの記事

また何かご不明な所がありましたらコメントかメールフォームにてご連絡お願いします!

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自分を伝える効率のいい方法。
分公は文章を選んだり、時には声を取り入れてみたりと、様々な方法を使ってきた。
今日はそんな「手段」ではなくて、「自分を伝えれられない時」が脳裏に浮かんだので軽く書いておこうと思う。

例えば
「あなたは去年の文化祭で何をしましたか?」
と聞かれたとする。
「僕はクラス劇で活躍しました」

もし、自分でほめてもいい程努力して、それを伝えたくてもこの回答では駄目だ。
軽い例題なので、「自分で【活躍しました】はねぇだろw」という意見はちょっと引っ込めておいていただきたい。

「僕はクラス劇の主役を全力で演じました」
「僕はクラス劇の大道具を毎日放課後に残って製作しました」

分公が言いたいのは、
「伝えたいことは『曖昧な表現』で片付けない」
ということ。
せっかくの自分の才能も、努力も、成果も、ボヤーっとしたイメージでしか相手に伝わらなければ、相手に認めてもらえないかもしれない。
それによって「あの人は理解が足りない」だとか、「世間は冷たいよな~」とか「どうしてわかってもらえないんだ」「アァハ~ン」と腹を立てることになると、それは悪循環である。
互いの理解を深め、気持ちのいい付き合いをするためにも、小さな言い回しから『曖昧な表現は使わない」というのを徹底することは大切なのではないだろうか。

相手を知るにはまず自分から。
一言で片付けてしまいがちな言動も、工夫次第で相手の心をグッと掴む一言にできるのではないだろうか。



あんまり意識しすぎるとかえって言葉選びにモタツきそうな分公は、心の隅においておくだけにおこうかな・・・

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