お引越し予定。
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なりー!
分公は現在事故で左腕がイッてしまったので部活もゲームもパソコンを打つことも一苦労といった状況下にいる。
おおよそ趣味と言えるもの全てに制約がかかっているわけで、
いつもは「あーもう一日が終わるー。」なんて頭をかきむしりたくなる衝動に駆られても結局オナニーして寝る、なんて毎日が続いていたのだが、そんなことも無くなった。
「なーようやく11時だー!牛乳飲んで寝よ!」と布団に潜ってしばらく取り留めもないことを考えて寝る。
そんな毎日が続いているわけである。右手は元気なのでオナニーはするけどモ。
まぁとにかく毎日をどう過ごしていいのやらわからなくなってしまったのだ。
学校へ行けども5時ぐらいには束縛から解放される。
友人はバイトやら部活で忙しく、分公だけ暇な時には部室で火おこしでもやって気を紛らわしたり、ええい!と山にテントを張って火を焚いて寝たりだとか。
両手がある生活はどんなに素晴らしかったことか。
今となっては片手で部室の片付けをしようとも次の日には荒らされてイラッ。
自転車で面白い店なんかを探しながら、なんていう帰り道も片手なのでバス通学に。
「いてて」と言いながら満員のバスを降りるのにもイラッ。
授業の課題レポートをPCで製作しなくてはならなくても全て片手で打たなくてはならない。
コントロールキーやらシフトキーを同時に押さねばならんとなるとイラッ。
あーたまらん!
ここまで書いただけでもなかなかの時間のかかり用である。
ちょっと休憩。
はい、牛乳飲んで休憩しました。
本題に入ると、時間についてである。
今までヤルことというか、暇つぶしにあふれていた分公と、何もかも手に付かない(左手に)今の分公と、圧倒的に時間の感じ方が違うわけだ。
これは感覚的に時間を「長く感じる」か「短く感じる」かの差であると言える。
時間とは客観的に普遍的に誰の間でも一定で流れていくはずなのだが本当にそうなのだろうか。
地球から脱出してみれば時間の流れ方も変わる。
宇宙旅行から帰ってきてみれば軽い浦島太郎状態が起こるらしいがそれはどうしてか。
それは時間の経過具合はそのものが属する質量によって変わるというのだ。
よくわかんないかもしれないが、分公たち地球生命体にとっては地球の質量によって「今の長さの」時間が流れているというのだ。ほんまかいな。
まとめると時間というものを計りたい時に、光を使って計るのが一番理想的なのだが、光の速さは重力に左右されてしまうのだ。
つまり宇宙の真ん中でぽつんと分公がいるのと、地球という馬鹿でかい質量による重力下にでボケーと生きる分公がいるのとでは、分公に流れる時間はそれぞれ違うらしいというわけだ。
こうなってくると話はよくわからなくなってくる。
たしかに分公たちは同じ長さの時間を共有しているが、時間とは光の長さで定義された「実態」が無いもの、計算で出されたものである。
その光の計算で出されたものが果たして分公たち人間が感じる「こんぐらい経過したなー」と把握する時間と一緒かと言われれば今の分公と昔の分公が感じている時間ように、一緒ではない。
時計で計った同じ24時間でも、分公の心のなかの話をすれば、骨折前の分公より今の分公のほうが一日を長い時間過ごしている。
んじゃ分公の心のなかでいう「1分」とか「1時間」とは一体何なのか不思議でしょうがないのだ。
はーいまとまらなーい
ほんっとうにどうでもいい。
この1時間半、右腕でポチポチと頑張ってキーボードを打ったこの時間を返して欲しい。
それこそ心のなかで言う「30分」ね。
あ、時間潰せた!!勝った!!
分公は現在事故で左腕がイッてしまったので部活もゲームもパソコンを打つことも一苦労といった状況下にいる。
おおよそ趣味と言えるもの全てに制約がかかっているわけで、
いつもは「あーもう一日が終わるー。」なんて頭をかきむしりたくなる衝動に駆られても結局オナニーして寝る、なんて毎日が続いていたのだが、そんなことも無くなった。
「なーようやく11時だー!牛乳飲んで寝よ!」と布団に潜ってしばらく取り留めもないことを考えて寝る。
そんな毎日が続いているわけである。右手は元気なのでオナニーはするけどモ。
まぁとにかく毎日をどう過ごしていいのやらわからなくなってしまったのだ。
学校へ行けども5時ぐらいには束縛から解放される。
友人はバイトやら部活で忙しく、分公だけ暇な時には部室で火おこしでもやって気を紛らわしたり、ええい!と山にテントを張って火を焚いて寝たりだとか。
両手がある生活はどんなに素晴らしかったことか。
今となっては片手で部室の片付けをしようとも次の日には荒らされてイラッ。
自転車で面白い店なんかを探しながら、なんていう帰り道も片手なのでバス通学に。
「いてて」と言いながら満員のバスを降りるのにもイラッ。
授業の課題レポートをPCで製作しなくてはならなくても全て片手で打たなくてはならない。
コントロールキーやらシフトキーを同時に押さねばならんとなるとイラッ。
あーたまらん!
ここまで書いただけでもなかなかの時間のかかり用である。
ちょっと休憩。
はい、牛乳飲んで休憩しました。
本題に入ると、時間についてである。
今までヤルことというか、暇つぶしにあふれていた分公と、何もかも手に付かない(左手に)今の分公と、圧倒的に時間の感じ方が違うわけだ。
これは感覚的に時間を「長く感じる」か「短く感じる」かの差であると言える。
時間とは客観的に普遍的に誰の間でも一定で流れていくはずなのだが本当にそうなのだろうか。
地球から脱出してみれば時間の流れ方も変わる。
宇宙旅行から帰ってきてみれば軽い浦島太郎状態が起こるらしいがそれはどうしてか。
それは時間の経過具合はそのものが属する質量によって変わるというのだ。
よくわかんないかもしれないが、分公たち地球生命体にとっては地球の質量によって「今の長さの」時間が流れているというのだ。ほんまかいな。
まとめると時間というものを計りたい時に、光を使って計るのが一番理想的なのだが、光の速さは重力に左右されてしまうのだ。
つまり宇宙の真ん中でぽつんと分公がいるのと、地球という馬鹿でかい質量による重力下にでボケーと生きる分公がいるのとでは、分公に流れる時間はそれぞれ違うらしいというわけだ。
こうなってくると話はよくわからなくなってくる。
たしかに分公たちは同じ長さの時間を共有しているが、時間とは光の長さで定義された「実態」が無いもの、計算で出されたものである。
その光の計算で出されたものが果たして分公たち人間が感じる「こんぐらい経過したなー」と把握する時間と一緒かと言われれば今の分公と昔の分公が感じている時間ように、一緒ではない。
時計で計った同じ24時間でも、分公の心のなかの話をすれば、骨折前の分公より今の分公のほうが一日を長い時間過ごしている。
んじゃ分公の心のなかでいう「1分」とか「1時間」とは一体何なのか不思議でしょうがないのだ。
はーいまとまらなーい
ほんっとうにどうでもいい。
この1時間半、右腕でポチポチと頑張ってキーボードを打ったこの時間を返して欲しい。
それこそ心のなかで言う「30分」ね。
あ、時間潰せた!!勝った!!
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